石鏡第一ホテルの歴史がわかる、現会長の記事をご覧下さい。

目で感動、舌で堪能の荒磯料理

鳥羽からパールロードを通り、車で20分あまり。
石鏡港を見おろす半島の高台にそびえ建つ『石鏡第一ホテル』。
 第2次世界大戦のころ、陸軍の監視哨があったという場所だけに、伊勢志摩をぐるりと見渡す大パノラマは絶景の一言に尽きる。
「お風呂につかりながら、空と海を染める夕日を眺めるのは最高ですよ。夏にはイカ漁の漁り火が夜の海に灯って、それはもうきれいです」
 社長の木村良三さん、53才。日に焼けた精悍な顔、182cmという長身。“海の男”の風格が漂う。250名収容の本館、130名収容の東館から成るホテルの舵をとる。

会長の木村良三

▲木村 良三 会長


「石鏡の城をつくる!」

木村社長は3人姉弟の長男。父親は2才のときビルマで戦死。海女をしながら、母親が女手ひとつで育ててくれた。
 中学を出てすぐ半農半漁の生活に入り家計を助ける。25才で同じ石鏡生まれの広子夫人と結婚。28才のとき釣り客向けの民宿「浜乃家」をスタートさせ、これが人気を呼んだ。
 そしてその3年後にはパールロードが開通する。陸の孤島といわれた石鏡に交通アクセスができるのだ。木村社長は決めた。
「俺は上にあがる。高台のてっぺんに、石鏡の城をつくる!」
 こうして昭和48年6月、石鏡第一ホテルは完成した。

苦難の時代は財産

「最初は苦しかった。うちには釣り客はあっても、観光客がついていなかったからね。」
 仕入れ、板前、送迎から電話番まで、自らなんでもやった。がむしゃらに働き、睡眠3時間の毎日が続く。
「建物は建てても人が来ない。孤独で、気弱になってたね。」
 営業もした。大阪のキタへ、麦わら帽に長靴のいでたちで。そこで出会った新聞記者が、後日ホテルを訪ね、小さな記事を書いてくれた。
『料理は型破り。だが猟師ならではの、新鮮なものを出すホテル・・・』
 この記事がお客を呼んだ。ダイナミックな荒磯料理、大漁焼。心のこもった接客にリピーターも増え、従業員も増やして石鏡第一ホテルは起動に乗っていったのだった。
「苦しかった時代は財産ですよ」
いま、すがすがしくそう言い切る。

石鏡の海を愛すればこそ

大評判の料理は昼食で5000円、宿泊は16000円から。
よく晴れた日には富士山まで望める素晴らしい展望。朝風呂のあと、日の出を参拝してもらいながら甘酒を振る舞う粋なはからいも。今年の元旦は初日の出と富士山が同時に見え、宿泊客から歓声が上がった。
 あたたかいサービスが今日のお客様を明日へつなげると木村社長。
「一昨年亡くなった母が、寝る前にいつもこのホテルの窓の明かりを見上げてたんです。少ないと心配するんですね。励みになりましたよ。今日もおふくろが見てるなぁって」  必要とあらば船長になって、釣り客たちを絶好の穴場へ案内するという木村社長は、まさに石鏡第一ホテルの船長でもある。
「露天風呂や、驚くようなパノラマ展望ロビーをつくって、来てくれた方に喜んでもらいたいですね。私はいつもレーダーを回してますよ」
石鏡の海を愛する思いこそが、豪快でいて細やかなもてなしとなって、来る者を迎えてくれるのだろう。

月刊みえ1995年4月号より抜粋

訪ねたい 銀幕有情 ゴジラ(三重・鳥羽)

石鏡漁港 石鏡漁港  石鏡は志摩半島の突端、鳥羽市の中心部から「パールロード」を行く。幾筋もの山渓が水没しかかったようなリアス式海岸を縫う。
 1970年代にこれが開通するまで「陸の孤島」といわれた。浦々を回る小さな1日2便の巡航船が鳥羽港から物と人を運ぶ唯一の手段だった。波にもまれて鍋や釜が船から転がり落ちたという。道路は観光客を呼び、若者は出た。浦の人口はかつての半分、600人台までに落ちた。

 1954年夏。巡航船が撮影機材や俳優たちを浜に下ろした。今は堤で整備された漁港の辺りである。
 ゴジラは硫黄島近海で船舶を次々に襲って一瞬にして海中に葬り、「大戸島」で初めて陸上に姿を現す。伊豆諸島辺りを想定している架空の孤島である。波打ち際と斜面の間にへばりつく漁村、石鏡の風光はそれにふさわしかった。
 住民たちはエキストラで出演した。尾根から巨大な顔をのぞかせたゴジラ。皆懸命に逃げまどい、転んだ。何度も繰り返した。
 現在丘の上にホテルを営む木村良三さん(67)もその一人。日米開戦の年に生まれ、父は戦死し、良三少年は海女であった母らを乗せた船をこいで生活を支えた。撮影当時中学1年。学校は4キロの狭い道を上り下りして通った。そんな道は雑木に埋もれ、撮影で人々が汗みどろで右往左往した道も判然としない。


 日の傾くころ、丘に上がった。眼下の海は次第に青黒くなぎ、落日の朱を薄く溶かす。暮れなずむ空と水平線が溶け合う辺り、薄もやから黒く半身を起しかけたような影が見える。
 神島である。
 ちょうど石鏡でゴジラのロケが行われているころ、神島を舞台にした三島由紀夫の小説「潮騒」が全国の書店に並んだ。ギリシャ神話から抜け出したような少年漁師と少女の海女の恋。島にある旧軍の監的哨跡の逢瀬で、初江が新治に「その火を飛び越して来い」と叫んだ日は暴風雨だった。きょうはまどろむように闇に沈みつつある。
 わずかに残照を映す海の島影をゴジラに見立てながら(少しのアルコールも入れて)思いを巡らした。 ゴジラは光を憎んだ。なぜか。初江と新治の間に立った炎とは異なり、ゴジラにとって光り輝くものは破壊し尽くさずにはおかない激情の対象のようだ。その光熱が太陽の何個分にも相当するという核実験への憎悪ともとれる。実際、その春起きた第五福竜丸事件は「死の灰」の恐怖を見せつけ、「ゴジラ」製作のモチーフの一つになった。
 ただ、どうだろうか。東京の繁華街をなぎ倒して進む姿は、わずか9年前まで続いていた戦争で倒れた名もなき兵士や、市民の無念が動かしているのではないか。私はそうした想念につい傾いてしまうのだ。  占領時代の終結、朝鮮戦争特需による経済復興。日本は復活しつつあった。
 東京上陸の前、湾内に光彩と音楽を放ち、男と女たちがダンスに歓喜する遊覧船を、闇の海面からゴジラが見るシーンがある。
 後日の「防衛隊」との交戦シーンや都心炎上よりも私はこちらの方が胸に刺さってくる。画面には映らぬが、ゴジラはかなしい目をしていたに違いない。
 思い込みが過ぎたか。酒が回ったか。

【文章/玉木研二 様】

毎日新聞 2008年(平成20年)6月9日(月)夕刊より

石鏡の歴史がわかる 「石鏡郷土誌」をご覧下さい

石鏡第一ホテル元会長「故寺本吉蔵」

石鏡第一ホテル元会長 故寺本吉蔵が残した
「石鏡郷土誌」

当館の元会長であり鳥羽市会議員だった、故寺本吉蔵が作った「石鏡郷土誌」。当地石鏡の歴史をご覧いただき旅情をお楽しみ下さい。

「石鏡郷土誌」を読む
石鏡郷土誌